「名もなき運」について。
最終更新: 2019年5月6日

割と最近のことだったと記憶してるのだけど、「名もなき家事」という言葉がにわかに注目を集めた。
炊事や掃除のような「大物」ではなく、例えばシャンプーの補充とか玄関の靴の片付けとか、日々の暮らしに欠かせないけど、その割に軽くみられがち、もしくはそもそも家事と認識されていないアレやアレのことである。
「名もなき家事」という言葉が、「名もなき家事」の存在をくっきりと浮き彫りにした。
溜飲を下げた主婦の方々もきっと多かったのではないかと思う。
そのことでふと思い至ったのだけど、同じようなことが、あるいは人の「運」についても言える気がして、だからこの機にちょっと書いてみようと考えた次第。
人の運にも種類があって、恋愛運や仕事運なんかは時に人生そのものを思わぬ地点へとかっさらってしまう、そう、カジノで言えば中央フロアにドンと置かれたド派手な高額ルーレットの危うさがある。
手持ちのコインを1枚残らずテーブルに載せる。
そして、ここ一発、どうか神様!と合掌して天を仰ぎ見る。
恋愛運や仕事運とは、まさにそういう「命運」のことであり、勝てば天国、負ければ地獄…とまでは言わないにせよ、その賭けどころが誰の人生にとっても大切であることはまぁ間違いないと思う。
一方で、僕が普段から細かく観察しているのは、そういう人生の重要局面とは全く関係のない小さな運、言ってしまえば「しょぼい運」だ。
しょぼすぎて、地味すぎてそもそも名前がない。
だから、それらをまとめて「名もなき運」と呼びたいと思う。

「名もなき運」の例をいくつか挙げると、まずは「USB運」である。
USBスティックの裏表が一発で合うか合わないか…。
まぁはっきりいうけど、誰の人生もどこにも運ばない運である。
あるいは「ポケット運」もある。
鍵ってどっちのポケットだったかな、右かな?クソ違った、左か…っていういつものアレがポケット運。
これも地味さで言えばUSB運に一歩も引かないものがある。
多少なりとも日常生活に影響を及ぼす例をひとつ挙げると「傘運」となる。
今日の空模様ちょっと怪しいけど…まいっか、傘は置いてこう…うわー降り出した!…これが「傘運」。
しかし、コンビニに飛び込めば解決する。解決してしまう。
今後の人生がその彼方までズブ濡れになるということはもちろんない。
僕たちの日々や人生は、思えばこういうどうでもいい、しょぼいギャンブルに取り囲まれている気がする。
「信号運」なんかは昔からよく言われるし、駅に着いたときちょうど電車が来るや来ないやの「電車運」もきっとある。
僕がこういうしょぼい運が気になるのは、なんというか、これらの日々のミニギャンブルたちはその実、日常に散りばめられた喜びの種のような気がするからだ。
作家の村上春樹さんがエッセイの中で、「小確幸(小さいけれど確かな幸せ)」という造語を提案されている。
例えば電信柱の根元に咲く小さな花と遭遇した、そういう些細な幸せのことである。
日常の中で「小確幸」をしっかりと感知する、そうすれば人生はまぁなんとかなる、という趣旨のエッセイだったと思う。
一大決心の末に誰かに告白したり、就職の面接に挑んだりするのは稀な日であり、多くの人にとって人生のほとんどは何気ないただの一日で構成されている。
「名もなき運」を意識するというのは、小さなラッキーを丁寧に感知して生きるということだ。
そしてその総和として、人生のほとんどを占める「名もなき日」の心の天秤を、「喜び」の方へとちょっとだけ傾ける、小さいけれど確かな重りの数々だと感じている。
USBが一発で刺さった時、僕は、暇な神様を相手にちょっとしたジャンケンで勝ったような気持ちになる。
アレ?なんかついてるなぁと、少しだけホクホクとした気持ちになる。
「名もなき運」というのは、そのホクホクへと姿を変える種のようなもので、その存在を丁寧に意識するかしないかは、この長い人生の喜びの総量をわずかなりとも左右するような気がしている。
ちなみにUSBが一発で刺さらなかった場合は、こんなしょうもないことに大事な運を使わなかった僕の勝ち、と考える。